私の"3.11"
仙台黒松教会員および未陪餐会員による寄稿です。敬称略。
わたしは、3月11日の大じしんのとき、学校にいて、帰りの会をしていました。
その時、大きいゆれがきて、つくえの下にもぐりました。その時は、何がおきたのかわからなくて、電気も消えて、げた箱がたおれる大きい音がしました。校庭にひなんして、まわりの女の子たちのほとんどが泣いていて、わたしもこわくて、泣いてしまいました。
そしたら、いつもふざけている男の子たちが「だいじょうぶだよ」と言ってくれました。うれしかったです。
だんだんほかの子たちが、お母さんお父さんと帰っていって、さいごになってわたしと合わせて6人ぐらいがのこりました。そしてまっていたらお兄ちゃん(ひかる)がむかえにきてくれました。くつがげた箱にあってとることができなかったので、上ぐつのまま家に帰ってきました。
帰り道、家の近くのコンクリートのかべが、たおれていました。家に入るとレンジもたおれていて、自分のへやの本だなもたおれていて、家の中の全部のへやがぐちゃぐちゃでした。その日の夜はまっくらで食べ物が少なくなっていつもより早くねる日が続きました。
水くみをしたり、お店にならんだり、おふろに入れなくなったりしました。その時思った事は、いままでの生活はめぐまれているんだなと思いました。
三日目になってテレビが付いたので見てみると、つなみのひがいの事が毎日うつっていて、見るたびに悲しくなりました。
二週間後にきょうかいに行ったら、れいはいどうのやねや、二階のろうかやかべに、たくさんのすきまやひびがあってびっくりしました。
一ヶ月たってやっと学校に行くことができました。友だちに会えた時はとてもうれしかったです。いまでもまだお家がなくなってこまっているひとがいるので、早くいままでの生活にもどってほしいです。
今回の大震災において、身の回りに起きたことは他の執筆者とさほど変わらなかったので割愛させていただきます。
私は警備会社に勤めており、おもに道路工事などの交通誘導にあたっております。震災以後、災害復旧の現場へ出向くことが多くなっており、そこで見たものを記させていただきます。
■地震による家屋及びライフライン被害
津波被害がおもに全国へ伝えられておりますが、地震による建物への被害も相当数あります。
仙台市宮城野区岩切地区、周りを水田に囲まれたのどかな住宅地ですが、こちらは3軒に1軒の割合で家屋が半壊した地域です。電柱にいたっては1本たりとてまっすぐたっておりません。
仙台市泉区加茂地区、水道局の修繕作業で行きました。ここでは口径600ミリの水道管がジョイント部分からはずれ、600ミリずれるという半ば信じがたい光景を見ました。
仙台市若林区大和町、国道4号線沿いに隼電気という会社がありました。鉄筋コンクリート3階建ての建物の2階が潰れ2階建ての建物に変わっていました。
仙台市太白区泉崎、国道286号線沿いに河北建設という会社がありました。前述の隼電気同様3階建てが2階建てに。
■津波被害
地震から2週間ほどたってから、私は塩釜市越の浦地区での国道45号線ヘドロ除去作業に同行しておりました。
漁港に打ち上げられた漁船、漁港いっぱいのヘドロ・・・
そのなか、黙々と漁船のエンジンメンテナンスを行う一人の人。年齢は60歳くらいでしょうか。
海で生計をたて、その海に生計をたてる術を奪われ、それでもなお来るべき日に備える。その姿に私の頭の中に旧約聖書ヨブ記の冒頭が浮かんできました。
仙台市若林区荒浜地区、ここは前述の塩釜市越の浦地区とはまったく違う津波被害でした。
「何もない」
テレビなどで言い尽くされた表現ですが、それ以外の表現が思いつきません。
土台だけが残り、その土台に花と線香が供えられている。それが1軒だけではなくそこらに広がっている。
■終わりに
紙一重で生かされている。このことに改めて気付かされました。その生かされた命をどのように用いていくかを今後の教会生活では考えてまいりたいと思います。
最後に、全国の日本キリスト教会の方々の暖かい支援及び祈りに感謝します。
特に、上田教会田中先生と福井宝永教会牧師夫人(名前を存じ上げないので)には貴重な情報と励ましの言葉ありがとうございました。
地震になった時は、パソコンをしていました。
とにかく私は車椅子から落ちないように・・・ それだけを思いながら足でふんばっていました。
建物等は特に被害はありませんでしたが、電気、ガス、水道は全てストップしてしまいましたので、誰とも連絡が取れなくなってしまった事が、1番困ったことです。
その日の夜は、ヘルパーさんが来られなかったので、1晩中車椅子の上で過ごしました。寒さと何度もおきる余震の中、懐中電灯の電池が切れ真っ暗になってしまいました。
余震が来る度、踏ん張らないといけないので、とても疲れました。
昨年、左足を怪我したせいで、痛みもあり、とても大変な夜を過ごしました。
3ヶ月経った今も、一人でいるとき車椅子に乗ることは怖くてできません。
震災の後久しぶりに外出をしました。私の中では3ヶ月過ぎてもあの時と何も変わっていません。ただ、生かされている事を大切に思いつつ震災前の生活に少しずつ戻していきたいと考えます。
東日本大震災が発生してから、早や4ヶ月を経ようとしている。
悲惨極まりない災害はまだ終わりを迎えることなく、被災地は苦しみの中にある。
国内外から哀悼の意と黙祷が捧げられ、支援の手がさしのべられている。故人となられた沢山の方々の平安と、地域の復興を祈るや切である。
さて、神はカオスの中から天地を創造され、陸と海とに分けられて「良し」とされた。極めて良しとされた。しかし自然災害の危険は常に身近にあり、再び混沌に飲み込まれる脅威にさらされている。
神はカオスから秩序を創られたが、この世に楽園を作られたのでは決してない。この事実をもって、神は「良し」とされ、我々はそれを受け入れなければならない。
神よ、何故に我らの同胞をかくも悲惨な目に遇わせ給うか。無力の私は一心に祈りを捧げ、神の返答を待つ。
神は沈黙されている。神の沈黙である。
神は我らと共に在り、人間のおろかさに気付くことを待っておられる。沈黙の神である。
今、私に何が出来るであろうか。何をしたであろうか。
教会は、特に黒松教会は、この大震災に対して、何をしたであろうか。某かをなし得なかったのであろうか。無為の教会を悲しむや切である。
たとえ、教会も、我々個々人も、被災者の一員であったとしても、「仕える者」としての行動が欠けていることを悲しむ。
神よ、迷える羊の群れを憐れんで下さい。特に被災された人々に救いの手をのべてください。励ましてください。
病の中にある人々に安らぎと希望を与えて下さい。主は我らと共におられます。己れを低くして、ひたすらに祈ります。
どこか心に蓋をして、生活していたのかもしれません。
地震以降のことをあらためて書き出してみようと思うのですが、なかなか思うように出てこないので、携帯電話のメールの記録や手帳のメモをたよりに記憶をたどってみました。
3月11日(金)午後私は1人で職場にいました。
14:46携帯電話の緊急地震速報。すぐに激しい揺れがきて、携帯電話を手にすぐに机の下にもぐりました。机の脚につかまりなら、激しいゆれがおさまるのを待っていると、途中で照明が消えパソコンの電源も落ちました。揺れが小さくなってきた14:49、携帯電話から家族へ安否確認のメールを打ち、家族と連絡がとれました。
一番心配だったのは保育所にいる3歳の息子のこと。
保育所に電話しても、電話がつながりません。無事を主に祈りました。しばらくすると職場の方がもどってきて、16:48やっと帰宅を許され、急いで車で保育所へ向かいました。
保育所に着くと玄関で所長先生が立っていて、無事と聞き、心底ほっとしました。
担任の先生から、「おじいちゃんが1時間ほど前に迎えにきました」と言われ、実家へ向かいました。後から聞いた話ですが、地震時、息子のクラスでは子供たちが昼寝から目覚めたばかりだったので、先生方が子供たちの体にだれかれかまわず布団を被せてくださったとのこと。そして、月1回実施している避難訓練のおかげで、子供たちが先生の話しをよく聞いて落ち着いていたことを知りました。
18:00ごろ実家へ着くと薄暗い玄関で、緊張した面持ちの息子が出迎えてくれました。
しばらくの間抱っこをして過ごしました。
実家には古い灯油ストーブがあり、暖をとりお湯を沸かすことができたので近くに住む家族が集まり、助けあいながらの避難生活がはじまりました。
その後、電気が3/14(月)明け方、水道が3/21(火)、ガスが3月末に復旧し、3/28に実家から自宅に戻り、少しずつ普段の生活がもどり始め、油断していました。
4/7(木)23:33震度6弱の余震により再び停電と断水。私は自宅で息子と2人で寝ていました。強い揺れにも関わらず息子が眠ったままでいてくれたので怖い思いをさせずにすみました。1時間ほどして夫が職場から帰宅し一安心しましたが、また3/11直後の生活にもどるかもしれない不安から落ち着かずなかなか眠れませんでした。
3/11から4ヶ月になりますが、息子は緊急地震速報がなると今もダッシュで飛びついてきますし、私は、低い地響きの音に敏感になり、その度に地震がくるかもしれないと緊張が走ってしまいます。
様々な思いが交錯していますが、生かされていることを心にとめて、すべてを主にゆだねて落ち着いて歩んでいきたいと思います。